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rexus別館

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apotosis vol.11

apotosis vol.11


DAY24 Kai
 この部屋だけが唯一俺たちの世界だった。
 先の一件を受けて郊外の屋敷が接収され、その一室がジェンドの静養にと与えられていた。
 真っ白な壁紙に覆われた質素な部屋。大きさは俺達の部屋の半分くらいか。部屋の中央には寄り添うように二つのベッドが置かれて、その片方には彼女が眠っていた。この上なく安らかな顔をしながら、そう、彼女は深い眠りについている。あの日以来ずっと。
 ベッドのすぐ横に椅子を置いて、彼女の寝顔を呆然と見つめながら、そこに一日中座っている。隣にあったもう一つのベッドを使う気にはならなかった。彼女が目を覚ました時に寂しい思いをさせたくないというのもある。だけれど、本当の理由は別の所にあった。目を離したらどこか遠くに行ってしまうのではないか、そう思うとたまらなく怖くて。一時たりとも彼女の側を離れたくはなかったのだ。
 一日中彼女の側に付き添って、夜は椅子に腰掛けたまま浅い眠りにつく。僅かばかりの休止を挟んで、延々と繰り返されていく二人ぼっちの寂しい時間。耳が痛くなるほど静かで、そして虚しい時間。
 毎日決まった時間になると、延命の術を施こす為に魔法医がやってくる。白い法衣を身に纏った大人しそうな女性だ。部屋に入ってきた彼女は、口元に穏やかな笑みを浮かべながら、決まって俺にお辞儀をする。それからゆっくりと彼女の側へと歩いていくのだ。
「それでは始めますね」
 子供のような高い声で言って、それがいつの間にか合図になっていた。それまでは色々と話をしていた気もするけれどーーもっとも、それは彼女が一方的に振ってきた話題であったけれどーーよくは覚えていない。きっと、俺が淡泊な返答しかしないから諦めたのだろう。ともかく、その唇から紡ぎ出される言の葉がジェンドの命を繋ぎ止めているのだ。もし一日でも彼女が来なかったら、何も食べることの出来ないジェンドはあっという間に弱ってしまうだろう。それは、悲しみと恐怖の織りなす鎖となって俺を縛り付ける。そこから逃れる事などかなわない。彼女の掌から放たれる蒼白い光を見つめながら、毎日そのような事を考えていた。

「ジェンド……いつまで眠っているんだ? もう14回も陽が昇っていったよ。14回も……ずっと数えてたんだ。お前いつも言ってたよな。早く目を覚ませ、いつまで寝てるんだって。お前の方こそ……」
 最後まで言うことが出来なかった。目頭がカッと熱くなって、体中に震えが走って、それ以上続けたら涙を堪えきれないと思った。俺が涙を流せば、悲しい顔を見せれば、きっとジェンドを苦しめてしまうから。例え今の彼女に意識がなかったとしても。
 何かをしなければならないと思った。気を紛らわせることの出来る何か。その答えを求めるように、彼女の手をそっと握りしめる。
 ひんやりとした感触が掌を伝った。布団の外に出していたせいだろうか、そんな事を考えながら、すっかり冷たくなった彼女の手を優しく撫でてやる。ゆっくりと、慈しむように。それに応えるように、彼女の指がピクッと震えた。
「え……」
 慌てて彼女の顔に視線を向ける。何も変わりはない。先ほどと同じように、安らかな顔をして眠っているだけだ。もしかしたら気のせいだったのかもしれない。頭の中ではあっさりと結論を出しながらも、心の中ではがっくりと項垂れていた。そしてため息を吐いた瞬間だった。彼女の睫毛が微かに震えて、その瞳がゆっくりと開いたのだ。
「ジェンド?」
 その顔はどことなく怯えているようにすら見えた。口をポカンと開けたまま目をキョロキョロさせる彼女。まるで捨てられた子犬のように、そんな風に思わずにはいられなかった。
「ここは……」
「良かった……目が覚めたんだな」
 ようやく俺の存在に気づいたらしかった。大きな瞳をこちらに向けながら、次に彼女が言った科白に、俺は愕然としてしまった。

「お前は……誰だ?」


最終章 貴方と踊るワルツ


 彼女が命と引き替えに失ったもの、それは共に過ごしてきた日々の記憶。命の代償としては安かったのかもしれない。それでも、大切な人の内にある自分の存在が消えてしまうというのは、まるで自分を否定されたかのように寂しい事だった。
 決して求めたりしないという事、それが何よりも重要であるように思えた。今の俺にとって大切なのはジェンドだけなのだから。自分のことなどどうだっていい。たとえ彼女が俺のことを思い出さなかったとしても、彼女が幸せになれさえすればそれでよかった。その隣にいるのが俺でなくともいい。彼女のために何かできたなら、それで彼女を支えることが出来たなら、それで良かったのだ。それが彼女を愛することだと、ようやく気づいたのだから。彼女が俺にそうしてくれたように。

「ジェンド、入ってもいいかな?」
「ああ……構わない」
「ありがとう」
「ええと……」
「カイだよ。ふふっ、別に怪しい者じゃないから。心配しないで」
「……ごめん。まだ思い出せないんだ」
「謝らないで。全然気にしてないからさ」
「ずっと付き添ってくれてたって……先生に聞いた。一緒に旅をしていた仲間だとも」
「結局何も出来なかったけどさ」
「そんな事無い……本当にありがとう。感謝してる」
「ああ。それより、具合はどうだ?」
「先生は安静にしてろって言ってたけど、体の具合は大分いいよ。気分も悪くない。ただ……」
「ただ?」
「何も思い出せないんだ……この部屋で目を覚ます前の記憶が全部」
「ジェンド……」
「医者は何か言ってたか?」
 その問いかけにどう答えてよいか解らなかった。俺はその答えを知っている。だけれど、どう伝えればよいかを知らない。そうする事が正しいのかも。この沈黙が何を意味するかくらい解っていたのに。
「お前が私に近しい人だと聞いていたから……だから、何か聞いているんじゃないかと思って」
「そう……か」
「私は知りたいんだ。一体何が起こったのか……これからどうなるのか」
「そうだよな……不安だよな」
「…………」
「医者は何て?」
「何も。私が何を訊いても口を濁すだけで……」
「…………」
「もしも何か知っているなら……教えて欲しい。それがどんな事でも……受け入れる覚悟は出来ているつもりなんだ。私は……」
「俺の目を見て」
「ああ」
「落ち着いて聞いて欲しいんだ。俺が何を言っても、慌てて判断しようとしないで。何も決めつけようとしないで。いい?」
「解ってる」
「ジェンドの記憶が戻るかどうか……それは誰にも解らない。明日戻るかもしれないし、それは何年も先になるかもしれない。いつ戻るかの確約は出来ないんだ。でも、裏返してみれば絶対に戻らないとも言えないって事。そうだろ?」
「…………」
 彼女は何も応えなかった。ただ唇を堅く噛みしめ、布団をじっと睨み付けているだけだった。
 不意にその肩がぴくっと震える。それはあっという間に全身に広がって、噛みしめた唇は真っ青に染まっていた。
「ジェンド……」
 紅の瞳から大粒の涙が零れ落ちる。一粒、二粒……止めどなく流れ落ちていくそれは頬に生々しい涙の跡を残していく。それでも、彼女は泣くまいと必死になっていたのだ。鋭く尖った八重歯を下唇に押しつけて、何とか声を漏らすまいと躍起になっていた。
 抑えきれなかった声が喉の奥から聞こえてくる。酷くくぐもった唸るような声。それが酷く痛々しくて、気が付いたら彼女の躰を抱きしめていた。きつく抱きしめていた。今の俺にそうする資格があるかは解らない。だけれど、そうせずにはいられなかった。
「よしよし……一人で悩んでて辛かったよな。不安だったよな。もう我慢しなくていいから。思い切り泣いていいからな」
「自分が誰かも解らなくて……怖くてしかたないくて……誰にも言えなくて…………」
「ああ……怖かったな」
「お前のこと何も知らないのに……ごめん……こんな…………こんな事して…………」
「いいんだよ、ジェンド。俺がお前のことを知ってるから。それだけで十分だから」

 あの一件以来、しきりにジェンドの部屋を訪れるようになった。それまでは意識して行かないようにしていたから。彼女が俺の事を覚えていないというのに、今までのように部屋に泊まったり、足繁く通ったりするわけにはいかないと、そう思ったのだ。それに、彼女自身一人で考える時間が必要だとも思ったから。
 彼女は俺に対してすぐに心を開いてくれた。もちろん、今までのような関係とまではいかないけれど。俺の事をよく信用してくれて、何でも話してくれたように思う。今どういう気持ちなのかとか、これからどうしたいのかとか。良い事だけでなく悪い事も。それがとても嬉しかった。
 それから一週間が経ち、医者から安静を解除しても良いという許可が下りた。医者曰く、記憶はいつ戻るか解らないが、身体の方は全く問題がないらしい。それを聞いて安心した俺は、急いでジェンドの部屋へと向かっていった。

「ジェンド、入るよ」
 二度ほどノックしてからドアを開けた。
 しかし、中には誰もいなかった。念の為に部屋中をぐるりと見回してみる。やはり誰もいない。一体どこに行ったのだろう? そう思った瞬間、廊下の方からガラスの割れるような音が聞こえてきた。
 反射的に部屋から飛び出す俺。胸が酷くざわついていた。ジェンドに何かあったのではないかと、不安でたまらなかったのだ。
 遠くから聞こえてくるざわめきを頼りに、先ほどの音が聞こえてきたであろう場所へと向かっていく。
 その場所へとたどり着いた時、目の前には既に人だかりが出来上がっていた。人の波が邪魔をして前を見る事が出来ない。奥歯をギリッと噛みしめると、迷うことなくその中へと飛び込んでいった。
 人混みをすり抜けていったその先にジェンドはいた。右の拳を真っ赤に染めて、彼女の周りには鏡の破片が飛び散っていた。
「ジェンド!!!」
 びくっと身体を震わせる彼女。ぎこちなくこちらに顔を向けて、俺の姿を見つけた瞬間、紅の瞳をカッと見開いた。
「私は……私は一体何だ……?」
 はじめは何を言っているのか解らなかった。しかし、彼女が震える両手をあげて、そして耳を覆い隠した時に、全てを悟ってしまったのだ。俺の中では当たり前になっていて、意識すらしていなかった事。即ち、自分がダークエルフであるという事を、少なくとも周囲の人間とは明らかに異質である事を、彼女は気づいてしまったのだ。
「落ち着いて、ジェンド。何も心配する事はないから」
「私を見るんじゃない!!」
 彼女の足下に散らばった破片がキラリと光る。下手に刺激すべきではない事くらい解っているつもりだ。しかし、もし彼女が思いきった行動に出たらと思うと、このまま放っておく事は出来なかった。
「皆、下がってるんだ! ジェンド、今からゆっくりとそっちに行くからな。何もしないから、絶対に傷つけたりしないから、だから何も心配しなくていい」
「やめろ! こっちに来るな!!」
「大丈夫。何も心配しなくていいから」
 そろりそろりと足を進めていく。彼女は依然立ちつくしたまま、焦ったように目玉をギョロギョロと動かしていた。
「よし、半分まできたぞ。あと少しだ。ジェンド、大丈夫だからな。何もしないから」
 なだめるように言いながら距離を狭めていく。ひしひしと伝わってくる恐怖や混乱がより鮮やかさを増していく。
 目を逸らしたくてたまらなかった。これ以上見ていられなかった。だけれど、それはただ単に目の前の事実から目を背けるだけではない、ジェンドという存在からも目を背ける事になるのだ。そんな事をしてしまえば、俺は二度と彼女に顔向けできないだろう。そして自分に対しても、二度とその過ちを許す事など出来ないだろう。だから、彼女を見つめる目を決して閉じはしなかった。
「やめろっ!!」
 俺を払いのけようと勢いよく手をあげる彼女。その指先が目の前を横切った直後、頬に鋭い痛みが走る。少し遅れて流れ落ちる生ぬるい液体。それを見た瞬間、彼女の顔色が一気に変わっていった。
「あ……ああ……私……そんな…………ごめ……私……そんなつもりじゃ……」
 激しく頭を振りながら、明らかな動揺の色を見せるジェンド。それは先ほどの混乱の比にならないほど酷いものだった。すかさず両手をとってぐいと引き寄せる俺。彼女の顔が目と鼻の先まで飛び込んでくる。
「ただのかすり傷だ! 大丈夫だから! だから落ち着くんだ!」
 しかし彼女に落ち着く気配は微塵もない。ぶんぶんと腕を振り回して、必死に俺から離れようとしているようだった。そして絹を切り裂いたような悲鳴をあげたかと思うと、小さな体をびくんと震わせ、そのまま俺の方へと倒れ込んできた。
「ジェンド! くそっ……おいっ、誰か医者を呼んでくれ!! 早く!!! 医者を呼ぶんだ!!!」
 彼女の身体をぎゅっと抱きしめながら、無我夢中でその背中をさすっていた。のしかかってきた彼女の身体はあまりに軽くて、そして小さかった。


 どうやって彼女の部屋までやってきたかは解らない。ただ、気が付いたら医者が彼女を診ていて、俺は呆然と壁際に立ちつくしていた。
 医者が言うには「過度の精神的な負荷に耐えきれなかった」そうだ。要するにショックが大きすぎたという事だろう。無理もない、前にも同じ事があったのだから。十六夜を斬ってしまった時も、取り乱して俺を叩いた時だってそうだ。大切な者を傷つけてしまった時に過剰な反応をする。
「大切な者……か」
 そう呟いて、彼女の顔に視線を移した。うなされているのか、眉間にしわを寄せて、険しい顔をしている。彼女の為に一体何が出来るだろう。何をすべきなのだろう。いくら問いかけてみても、答えは見つからなくて。結局は傍にいる事が一番なのだと思う。彼女がそれを望む限り。
 慈しむように髪の毛を撫でてやった。それに応えるように、薄闇の中で紅の瞳がそっと開く。
「目、覚めたか?」
 にっこりと微笑みながら問いかけてみた。
 彼女は一瞬のうちに目を細めて、布団から出した手を、ゆっくりとこちらに伸ばしてきた。それから恐る恐るといった風に頬に触れて、一言だけ「ごめん」と呟いた。
「かすり傷だって言っただろ? 全然平気だって」
 真っ白な八重歯が下唇に食い込んでいくのが見えた。今にも泣き出しそうな顔をした彼女はパタンと手を落として、そのまま顔を横に向けてしまった。
 衣ずれの音が闇に響き渡る。その後に訪れる沈黙。彼女の髪の毛をそっと撫でて、それからゆっくりと口を開いた。
「黙っててごめんな。隠すつもりはなかったんだけど、俺にとっては当たり前の事で、すっかり忘れてしまっていたんだ。でも、何も知らされずに鏡を見たら……そりゃびっくりするよな。もうちょっと気を遣っていたらよかったんだけど……本当にごめん」
「そんな事無い。こんな私のために一生懸命になってくれて、親身に面倒を見てくれて。それなのに私は……」
「全部話すよ。ジェンドの事、俺達の事、何が起こったのかも」
「……うん」


 今までの事をゆっくりと時間をかけて話した。俺なりにうまくまとめられたと思う。結局、無理矢理押し倒してしまった事は話せなかったけれど。俺達がつきあっていて、そして結婚したという事も。
 話し終わった後の彼女はとても穏やかな顔をしていた。もしかしたら取り乱すかもしれない、そんな不安が無かった訳じゃない。それでも、彼女なりにうまく整理して、受け入れてくれたのだと思う。
「大丈夫か?」
「うん、ありがとう。話してくれて良かった。今までずっと不安だったから」
「そうか……なら良かった。でも、記憶に捕らわれて欲しくはないんだ。じれったいかもしれないけど、思い出せないからって焦る必要はない。大切なのは今ここにお前がいるっていうことなんだから。お前が望む限りずっと傍にいる。力になるから」
「私が望む限り?」
「ああ」
「そっか……うん。ありがとう」
「へへっ、気にするなって」
「一つお願いしてもいいか?」
「何なりと」
「私が眠れるまで……傍にいて欲しい」
「おやすいご用さ」
「ありがとう」
「うん」
「最後に……もう一つ訊いていいか?」
「何だ?」
「どうしてそこまで良くしてくれる?」
「ん……仲間だから、かな?」
「そうか……そうだよな」
「どうかしたか?」
「いいや、何でもない。それじゃ、もう寝るよ」
「ああ、お休み」
「お休み、カイ」


 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。柔らかな陽の光に目を覚ますと、椅子に座ったまま、彼女の布団の上に突っ伏していた。
「ん……?」
 背中に何か重いものが乗っているような気がした。ゆっくりと頭を上げると、それが布団である事が解った。寝ている間にジェンドが掛けてくれたのだろうか? そのような疑問を抱きながら、彼女の方へと顔を向けてみる。
「おはよう。よく眠ってたな」
「あ……ああ。この布団、お前が掛けてくれたのか?」
「うん、風邪をひくといけないから」
「そっか。ありがとう」
「ふふっ、大した事じゃないよ」
「いつ頃から起きてたんだ?」
「そうだな、1時間くらい前かな」
「げ……」
「どうした?」
「……1時間も一体何してたんだ?」
「お前の寝顔を見てた」
「うわっ……やっぱ? 間抜けな顔見せちゃったな」
「ふふっ、可愛かったよ」
「冗談よせって、全く」
「冗談じゃないよ。それで、お前の寝顔を見ながらずっと考えてたんだ」
「寝顔はいいから。一体何考えてたんだ?」
「昨日……私達が住んでいた町の話をしてくれたよな」
「ああ、それがどうした?」
「行ってみたいんだ。リルハルトの町へ。そこでどのような生活をしていたのか、この目で見てみたい」
「ああ……うん、そうだな」
「どうかしたか?」
「いや、何でもない。そうだな、あそこに行ってみるのも悪くないかもな」
「本当に?」
「ああ、本当だ」


DAY41 リルハルト
 リルハルト行きに戸惑った理由、それは町の人たちに受け入れられるだろうか、という不安があったからだ。しかし、そのような心配はすぐさま徒労に終わった。
 どうやら女王が手を回してくれていたらしい。町を破壊した元凶どころか、オッツ・キイムを救った英雄として俺達を迎え入れてくれた。その熱烈な歓迎ぶりには戸惑ったけれど、そこそこに切り上げて、逃げるように家の中へと入っていった。

「ここで暮らしていたんだ……」
 部屋をぐるりと見渡しながら彼女が呟く。久しぶりに帰ってきた我が家に感動する様子もない。ただ目の前の景色を呆然と見つめながら、どこかしら戸惑っているようにすら思えたのだ。しばらくの間部屋の中を見て回っていたけれど、口を開くことなく、ただ一つ一つの物を丁寧に観察しているようだった。
 それから後も、彼女の様子はどことなくおかしかった。一度だって笑いもしなかったし、殆ど口も訊かずに座っているだけだった。夕食だってそうだ。アドビスにいた頃の半分も食べなかった。いくら理由を問うても、ただ「疲れたんだ」と答えるだけで、何も話そうとはしなかった。
 一体何が彼女を変えてしまったのだろう。そのような疑問に答えを見いだす事も出来ないまま夜は訪れ、結局その日は大人しく眠る事となった。
 しかし、ここで問題が一つあった。この部屋にベッドは一つしかなくて、そして一緒に眠るわけにはいかないという事だ。彼女が俺に対して好意を抱いてくれているのは確かだろう。しかしそれは愛情ではない。だとしたら、一緒の布団に入るわけにはいかなかった。
「ジェンドはベッドを使って。俺はソファーで寝るから」
「どうして?」
「どうしてって……」
「これは二人用のベッドなんだろ? 今まで一緒に使っていたんじゃないのか?」
「あ……いや、でも……」
「違うのか?」
「いや……違わないけど」
「だったら問題ないだろ? ほら」
 布団に入りながら俺を睨み付けるジェンド。いつになく強気な彼女に、思わず面食らってしまう。
「あ……ああ」
 そろそろと布団に入って、そして彼女に背を向けた。自制心の一つや二つは持ち合わせているつもりだ。だけれど、どことなく気まずくて。一つには彼女の様子がおかしいというのがある。もう一つは、そういう関係でもない男女が一つの布団の中に入って、どう振る舞えばよいのか解らなかった。もちろん何をするわけでもないのだけれど、それでも色々と考えてしまうのだ。
 そのような思惑とは裏腹に、彼女の細長い指が俺の身体に触れてくる。背中から肩、そして胸へと、まるで弄ぶように動かされる彼女の指先。その艶めかしい動きに思わず反応してしまう。
「な……何やってるんだよ」
 その言葉にピタッと指が止まる。
 しばらくの沈黙が続いた後で、かすれた彼女の声がそれを破った。
「……どうして何もしない?」
「どうしてって、一体何をするって言うんだよ?」
「私達……そういう関係だったんだろ?」
「何を言ってる……」
「この部屋に入った時にすぐ解った。ダブルのベッド、おそろいのカップ、きっちり二対の食器……どうして黙っていた?」
「…………」
「どうしーー」
「お前を追いつめたくなかったんだ。もしもそれを知ったら、お前は自分を責めるだろう? 俺を傷つけてしまった、辛い目に遭わせてしまったって。今のお前のように。そして記憶に捕らわれたまま俺を愛そうとしたんじゃないのか? そんな事をさせるわけにはいかなかったんだ」
 背後から鼻をすする音が聞こえてくる。やっぱりーーそう思いながら、ゆっくりと彼女の方に身体を向けた。
 薄闇の中に浮かび上がる潤んだ紅の瞳。微かに震える唇。痛々しいその姿に、目頭がカッと熱くなっていく。
「どうして……どうしてそうまでして私なんかを気遣ってくれる? お前がこんなにも良くしてくれるのに、私には何もしてやれなくて……迷惑を掛ける事しかできなくて……傷つける事しかできなくて……」
「ジェンド」
「私にはこんな事しかできないから……でも、それでもしお前が喜んでくれたら……」
「ジェンド、お前勘違いしてるよ。俺は傷ついてなんかいない」
「嘘付け……そうやってまた無理して」
「嘘じゃない。お前がイールズ・オーヴァにさらわれた時……正直もうダメだと思った。お前が死んでしまうのではないかと思って不安でたまらなかった。でも、お前はちゃんと生きててくれた。今だって、大好きな人が傍にいてくれるんだ。それなのにどうして傷ついたりする? 俺はお前の記憶を愛している訳じゃない。お前自身を愛しているんだから。お前が俺の事を忘れてしまっても……ずっとずっと愛し続けるんだから。例え一方的なものであっても、それが愛する事だって、ようやく解ったから」
「私が好きなら……だったら何で抱かなかった」
「お前は……本当にそうしたいと思っていたのか?」
「ああ」
「どうして?」
「どうしてって……」
「俺に負い目があったからじゃないのか?」
「…………」
「記憶があるとかないとか……そんな事問題じゃないんだ。一番大切なのはお前が俺の事を愛してくれているかという事。もし愛していないなら……お前を抱く事にどんな意味がある? そんなの……辛いだけだよ。もしも俺を喜ばせたいなら、精一杯幸せになって。お前が笑ってくれたら……それだけで俺は幸せなんだから。傍にいるのが俺でなくてもいい。お前が幸せになりさえすれば……俺はそれでいいんだから」
 ジェンドの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。か細い指でそっと俺の頬に触れて、そして顔を近づけてきた。それを拒む理由などどこにもなかった。彼女の為すがままに任せてゆっくりと目を閉じる。首筋に生暖かい吐息がかかって、次の瞬間、俺達は唇を重ねていた。
 初めてそうした時のようなぎこちない口づけ。それでも、これほどまでに心地よい口づけは初めてだった。
「今のは無理したわけじゃないから……心からそうしたいと思ったから……だから……」
「解ってる。ありがとう、ジェンド」


2年後 精霊節の日


「なあ、ジェンド。今夜予定空けとけよ。連れて行きたい所があるんだ」
「連れていきたい所?」
「まだ内緒」
「何だよ、そんな事言われたら余計に気になるじゃないか」
「へへっ、見てのお楽しみだよ」
「ちぇっ……解ったよ。楽しみにしてる」
「そうそう、それでいいの」
「いつ頃出るんだ?」
「そうだな……7時頃でいいかな」
「そっか。じゃあいつもよりも早めにご飯にしようか」
「ああ、頼むよ」


 この街には精霊節伝説が残されている。
 三年に一度だけ、この大地に宿る精霊達が姿を現し、そして天へと昇っていく。降り積もった人間の罪を空に連れていくのさーー初めてここにきた年に、ある人がそう教えてくれた。
「次の精霊節、一緒に見ような」
 そう約束したのに、当日になってつまらない喧嘩をしてしまって、結局一緒に見に行く事は出来なかった。
 あれから三年。果たされなかった約束を胸に抱きながら、俺達は再び精霊節の日を迎えた。


「はぁっ……はぁっ……一体どこまで登るつもりなんだ?」
「文句言わないの。あと少し……ほら、見えてきた」
「本当だ……って、うわっ!?」
「ジェンド!?」
 足を滑らせた彼女の手をとっさに掴んだ。一気に体重がかかってきて、こちらまで滑ってしまいそうになるのを、何とか足を踏ん張って持ちこたえる。
「大丈夫か?」
「ああ……助かった。うん、ありがとう」
「良かった。それじゃあ行こうぜ」
「あ……おいっ、いつまで手を握ってるつもりだ?」
「気にしない気にしない」
「気にするって……あ、もう!」

 ラシャの丘は街中の人で一杯になっていた。ここから目前のラインハルト山を見ていると、三年前の記憶が昨日の事のように蘇ってくる。
 ここでずっと待っていた。でも、彼女は来なかった。俺が悪いのは解ってる。それでも、とても悲しくて、寂しくて、胸がざわついて。あの時が二度目だった。孤独というもの強く意識し、かけがえのない彼女という存在を思い知ったのは。俺が手放そうとしていたものの大きさに、改めて気が付いた。
「……イ、カイ、大丈夫か?」
「え……?」
「ぼうっとして……一体どうしたんだ?」
「あ、いや、何でもないんだ。それよりも、ほら、始まるぞ」
 山の麓がうっすらと蒼白い光に包まれていく。その光の海から数限りない蒼白の玉が産み落とされ、それらはゆっくりと天に登っていった。まるで蛍の光のように、闇に染まった空を、幾重にも連なった光の残像が埋め尽くしていく。
「綺麗だね……ジェンド」
 応えは無かった。
 舞い上がった光の帯は次々と月明かりの中へととけ込んでいく。それらが一際眩しく輝いた瞬間、彼女は俺の手を握る指にギュッと力を込めた。
 ゆっくりと彼女の方に顔を向ける。彼女は空を見上げながら、その瞳からは一筋の涙が零れ落ちていた。
「ジェンド?」
「約束……守ってくれたんだな」
「え……」
「次の精霊節……一緒に……一緒に見ようって……」
 自然と顔中の筋肉が弛んでいた。自分でも泣いてるのか笑ってるのか解らないくらいに。一度だけ唾を飲み込んで、それからゆっくりと口を開く。
「おかえり、ジェンド」
 そして彼女の手をギュッと握りかえしてやった。



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